企業内の各種ハラスメント問題は外部に漏れないのが通例である。
概してデリケートなハナシが多く、かつ事の善悪や是非を判じるにあたり個々人の感じ方や許容範囲には相当な幅がある。年代が違うと常識や正論が必ずしも一致しないようだ。
と書いている私自身は常に門外漢であり、組織内の当事者になった経験はゼロに等しいというのは古い読者諸氏ならご周知かと思う。つまりこの手のハナシは傍観者的視点や第三者的聞きかじりに尽きるということだ。なので対岸の火事を眺める野次馬のひとりごととして読み流していただくのがよろしいかと思う次第だ。
「どう説明しても誤解されるし、わざわざ憎まれ役を買って出る甲斐もない」
という意味合いの言葉を聴かされることが増えたこの数年。
豪放磊落と粗暴放埓は似て非なるモノなのは当然ながら、はたしてその判定をできる人材が企業内にいるのか? などど訝しんでみたりもするワタクシである。
裁量労働とほったらかしの違いは「結果主義」での考課と査定なのだとしたら、大器晩成型の人材は芽も出ぬうちに間引かれてしまうような気がしてならぬ。
と、このまま書き進むと「イケナイコト」や「ブッチャケホンネ」を次々に書き並べそうなので、ちょっとだけずらしたハナシに切り替えたい。
掲題に挙げた有名な一節は、私の好きな言葉。
生き方の是非を問われるような場面にさしかかり、
「で、お前はどうするのだ」
と自問する際に、無意識に取り出して自身の在り方を測る定規ような貴い一行だ。
来し方をふり返れば、ずいぶんと世話になったとしみじみ思う。
しかしながら、
「卑しくなければ粗野粗暴が許される、、、というわけではない」
とする常識や標準が現実である。聞けば過去にまで遡及して昔ばなしの中にある武勇伝や逸話や伝記をも批判断罪し、挙句の果てには評価の見直しまで始めることもあるようだ。
こんな風潮の蔓延やハラスメント警察の闊歩について何かを申し述べるつもりもない。世相に対する自身の不本意や不満を無難に往なそうとしているわけでもない。
「踏み絵や魔女狩りはその時代の断末魔のあらわれなのだよ」
などという発言を行動に移す気力と体力が失せようとしている昨今、老兵は黙して後進を見守り後押しするのが最善と心得ている。ゆえに往来ではひたすらに黙して人々を眺めている。
物流現場でも過去には粗野を通り越して乱暴ともいえる言葉遣いが散見されたものだが、いまやそんなことも珍しくなった。
いわゆる“年季入りが上とされる仕事”では徒弟的人間関係が暗黙のうちに認められており、その囲みの中ではハラスメントと批判されても致し方ない言動が横行していた。
私もそのような環境での当事者であったはずと自認している。
良心や善意や愛情を忍ばせたり下敷きにしたうえでの叱責や否定や放置であっても、表面的な言動の在り方によってはことごとくハラスメントとして社会悪になる現在。時代錯誤と批判されている世代は表現力やかかわり方や教育に使用する言動のイロハから入替えて就業しなければならぬ、、、というのが50代以上の管理職諸氏のホンネであることが多いと感じている。
気になるのは内向的に陰湿化した表に出ないだけの虐待や孤立化が増えていはしまいか?
という点である。
第三者が聞いている分には、穏やかで丁寧な物言いとにこやかな表情で指導や説明しているようにしか見えない――なので虐げられ追い詰められている側は訴えるべき具体を挙げられぬ。
苛めやモラルハラスメントの巧妙化ともいえる事態の増加は現場力の衰退を招くに違いない、と老婆心ながら憂いている。
かつての現場では庫内に響き渡るような怒鳴り声でミスや弛みを叱りつけていた強面のオッサンがあちこちの倉庫やトラックヤードにいたが、「なにやっとんじゃ!弱いもんいじめするようなことは止めんか」と怒鳴り倒すのも同じオッサンだったりした。
「そないに怒鳴らんでも聞こえるがな。叱られている相手が縮みあがってしもうて、ハナシの中身が入ってこなくなるやんか」
という注意を管理層から受けているオッサンやベテランパートのオバちゃんはもう絶滅してしまったか、シーラカンスのように古代生物として珍重扱いされているのかもしれない。
「いいじゃないかにんげんだもの」では済まなくなる、、、のだとしたら、いったいどんな学校現場や職場環境が好ましいとされるのだろうか。
それを考え実践するのは私世代より後の方々にお任せするべき、と思っている。
昔取った杵柄、は厳禁ですぞよ。
老兵同志殿および諸先輩方々。
永田利紀(ながたとしき)
大阪 泉州育ち。
1988年慶應義塾大学卒業
企業の物流業務改善、物流業務研修、セミナー講師などの実績多数。
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