物流よもやま話 Blog

多くを求めなければ足りるはず、という声を

カテゴリ: 実態

個人消費の停滞が案じられる昨今だが、疫病の流行が止まりをみせぬままでは回復に遠い。
飲食や観光のみならず消費財や日用品にしても、一時の巣ごもり買いが落ち着けば、コロナ禍以前の数年前から続いていた冷え込みの実態が再び赤裸々になるだけだ。
所得増加による消費意欲の引き上げは正攻法に違いないが、日本企業の頑なまでの賃金抑制志向を軟化させるのは容易ではない。業績堅調でも先行き不透明と判ずれば、内部留保へと傾倒することは歴史が物語っている。

EC堅調という刹那的好材料に乗じて、一部物流事業者の業績は好調である。
しかし全体沈下の中でのいわば疫災焼け太り的好況など続くはずない。需要の急増が落ち着けば、業務量横這いのまま単価下落の圧がかかることは明白だ。減収基調がなだらかな下り坂のように延々と続くので、人件費以外の引き締めに抜かりなくあれ、というのが老婆心ながらの進言である。
人口減少下での労働者一人当たりの生産性維持は至難の業のひとつだが、それを叶えなければ地殻プレートのずれを待たずして、海ではないところに列島が沈む。
従って内需型企業の概ねは減収増益を目指しつつ、本音としては減益回避・前期並みならば及第とする動きが大勢を占めそうな気配に満ちている。
経済活動の生産性維持もしくは向上による所得増加施策は理想論のまま終われない。
なぜなら、かけ声だけの建前として形骸化すれば、その先に蜃気楼のごとく歪み揺れながら浮上するのは、貧しく荒涼とした原野をさまよう日本人の姿だからだ。
こうなると我々独自の「豊かさ」を今一度論じなければならないという気がする。

大量生産や大量消費は戦後の飢えに根を張った欲求や夢想のなれの果てであるが、もはや虚しさや寒々しい滑稽さの象徴ともいえる。今あるものを大切に使い続け、廃棄・新調の頻度を下げることで得られる小さな暮らしやつましさの美学を前面に押し出す社会風潮のもとに、先達たちと我々中高年世代がつくりあげてきた社会資本の充実を再評価すべきだ。

国内の主要都市間を結ぶ交通機関や縦横にめぐらされた高速道路や主要幹線と、そこから葉脈のように拡がり伸びる整備された道路網。
ビジネス場面のみならず行楽や観光に際し、それら社会資本のおかげで無意識のまま低廉なコストで楽しんだり往来が可能となっている。しかしながら、そのありがたみや経済的寄与度を謳う声をあまり耳にしない。新興の国々では公園や道路などのインフラ整備に巨額の費用が必要であり、それは主として税金からねん出されている。日本はもはやその負担額が少なくて済むのだから、その点もある種の所得として勘定してよいし、「先払いしてあるから維持改修費だけで済む」でも同じことだろう。

つまり大きな出費を要さずに暮らしを営めるのだから、今一度自分の周辺をまじまじと観察してみてはいかがか、という意で拙文を書いている。衣食住すべてで「求めなければ足りる」と悟れば、現状維持でも人生は十二分に謳歌できると考える人の数が増えるはずだ。
中国や米国ばかり視ないで、欧州各国の人々の暮らしぶりを詳しく調べてみればよい。ささやかさや質素さを熟成や落ち着きと言いかえるようになるかもしれないし、かつての日本人の価値観やつましさを善とする内面道徳への回帰につながるかもしれぬ。

物流作法も然りだと思っている。
スピードや量や規模、もはや誰のためかさえ不明となりつつある利便や技術の喧伝に傾く異様さはそろそろやめなければならない。
今日注文した荷物が三日後に届くことで生じる不都合や不利益など滅多にあるはずがない。
実はたいして望んでいないのに、あたらめて求めたり頼んだりしていないのに、「最短で明日届きます」というメッセージをこだわりや主義主張などないまま安直に受け入れているに過ぎぬのは誰しも同じなのだろう。少なからず怖さと違和感を禁じえないのは、そのような受動的で無意識のまま完結している個人行動の集約データが、消費志向の主流化した「事実」として基本認識となることに疑いを持たない論評や広報への検証や反論や抵抗があまりにも少ないことだ。

神速の入出荷処理など無用である。
人間相手に神を持ち出すのは宗教家だけで充分だ。
一定の猶予や抑制を受け入れれば、現状で足りるはず。
我々物流人こそ率先して声をあげるべきだと思っている。

著者プロフィール

永田利紀(ながたとしき)
大阪 泉州育ち。
1988年慶應義塾大学卒業
企業の物流業務改善、物流業務研修、セミナー講師などの実績多数。

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