物流よもやま話 Blog

在庫差異の不思議

カテゴリ: 実態

ずいぶん前から怪訝で理解しがたい想いを抱き続けていることがある。
それは物流現場と本社などの管理部門の在庫差異の処理の仕方だ。
「いいのかそれで?」という事例がたくさんある。
中でもマスター(本社)とローカル(物流現場)の在庫データ差異をどう処理するかについては、相当数の企業で乱暴ともいえる作業が行われている。
「本当のこと」はもはや誰にもわからない状態になっているはずだが、そんな実態に真正面から向き合い、憂いたり憤ったり悩んだりする者はいない。
いつからこうなのかも不明。
長らくルーティン化している「通常処理」ということなのだろう。

誤入荷・誤出荷や在庫差異、ヘンテコリンな加工だらけの奇形システムについては、数え切れぬほど現場と本部の、、、つまりはローカルとマスターの温度差を見てきた。
なので、目標値に帳尻を合わせただけの数字をひけらかされたり、それを支える仕組や技術などを説明されても、もはや額面通り真に受けることができなくなっている。
「小さな誤差」「たまのミス」「これぐらいなら」「不可抗力なので」「客先事情のため」の言葉が会話の中に出てきて、「じゃぁこちらで〇〇〇〇〇しておきますね」となる。
「〇〇〇〇〇」に入る文字がお分かりになるだろうか?
私の経験上では9割以上がこれに類した言葉を何のためらいもなく使う。
なによりもぞっとするのは、自社物流だけの現象ではないという内実にだ。
外部委託でも同じようなことは珍しくない。
身内(自社内)の馴合いや惰性・慣習と同様に、赤の他人であったはずの委託先倉庫会社の担当者や責任者、ひどい場合は事務のパート社員の単独判断と処理で、委託元である荷主企業の物流担当者や受注管理者は一日の「つじつま合わせ」を終える。その合言葉は全社共通だ。

物流業務関連の方々なら簡単に答えは出る。
ただ単に見て見ぬふり、聞いて聞かぬふりをし続けてきただけ。
その文字とは「チョウセイ」「シュウセイ」である。
もちろんあくまで実務ベースでの「あたりまえ」「日常」処理であって、誰に断わってするものでもない。
データが合わなければ「合わす」のだ。キーボードに指を置いて、画面を見ながら数字を打ち込めばすぐに終わる。
「在庫差異ゼロ」は数秒の「チョウセイ」や「シュウセイ」で成り立っている。
パンドラの匣とすら意識することなく業務の中に常在する誤入荷・誤出荷・在庫差異。
開けてはならないのではなく、開ける必要もないほどあたりまえにある数値の誤差。
それで毎日が終わり、毎週が終わり、毎月が終わり、毎年が終わる。
「この匣を開けたら」と考える者は少ないのだろう。

性悪説と性善説の線引きがややこしくなってしまう。
無意識で長年続けてきた日常としてのルーティン業務は「悪」なのか「善」なのか。
「悪だが無為で組織内での担当者作業として引継ぎまであった」ゆえ免責なのか。

しかしながら視点を変えれば「在庫差異も一定範囲内なら許容する」と割り切る経営でも支障ないのでは、となる。建前を外すか否かの違いだけで、実態は同じなのだから。
企業の価値観や事業方針の貫き方は一般論やきれいごとでなくていい。
「わが社はこうあるのだ」という明確な意思表示と周知徹底がなされているなら、物流屋はそれに合わせた料理方法と味付けを考えるのみ。
何でもかんでも正論をぶつけるのは稚拙なのだと思うようになってきた。

もちろん全部が全部そうではないだろう。
しかし「在庫差異」とはあくまで物流現場でのデータについてのハナシであることが多く、逆にいえば、循環棚卸だろうが実棚卸であろうが、現場のローカルデータが「合っています」といえば、相当の確率で「在庫差異はありません」となってしまう。

総実棚までとってそんなことが起こるのはなぜか?
それは本社の在庫データを管理する人間が、現場で作業し、データの精査をすることなどほぼないからだ。
なので「ない」といわれれば、何らかのデータ処理ミスが起因しているのだろう、ぐらいの感覚で、マスターデータを修正してしまう。

自分でくそ寒かったりくそ暑かったりする倉庫現場で「真実」を追求するなんて考えたこともないし、そんなことするほどお給料をもらってない。入社以来ずっとそうしてきたし、それに質問や疑念を投げかける上司は皆無だった。「合っていました」という言葉こそが正しい報告用語であり、余計な説明は混乱や迷惑の元となるので禁句だと感じていた。
「君の管理している実在庫差異は、原価で200万以上、売価なら、、、」
「金庫の中にあるはずの現金が200万以上足らないことと同じなのだぞ」
という説明と教育をする者はその企業にはいないのだろう。

「ロケごとの数値確認をデジタル化しているので恣意的な改ざんや操作はできない」
のような笑止きわまりないセリフなど無用。
「違うロケに間違って入っていたので、手入力でシュウセイしておきました」
「返品再入庫した商品に傷があったので、在庫から外します。ご承認願います」
「誤ピッキングした商品の棚戻しを再計上していなかったのでシュウセイしました」
などは常套句だ。本当にそうだったのか否かを確認するすべはないし、する気もない。
本当のことなど知りたくないし、何もなかったことこそが真実であるべきなのだ。
「そこそこの規模の企業ならあたりまえ」という事実をたくさんみてきた。
不実の継続と発覚しない理由は簡単。
在庫がなくなる前には新たな入荷がある。
だから実データと実棚の差異は表面化しない。その品番がディスコンになったとしたら最後はつじつまが合わなくなるのだが、その段階では「やめる商材の処分」という状況なので、残数の狂いに大きな関心を抱く者は少ない。見切りセールや福袋などのしんがり処理をするなら、もはや在庫数の正誤など誰も気にしない。「もう要らない商品」なのだから、デリケートな気配りや扱いは不要。綺麗に捌き切ることこそが正しい。
「いくつあるか」ではない。「いくらになるのか」が主眼であって、管理職はその総額と処分に要した時間の報告しか求めてはこない。

顧客への説明時によく用いるたとえなのだが、
「あなたのご自宅の冷蔵庫と食材の保管スペースに何がどれぐらいあるか即答できますか?」
というのがある。
相手が家事に疎い人物なら「配偶者はある程度わかっていると思うが、自分は皆目、、、」
相手が家事の大部分を担っているとしても「なんとなくしかわかっていないような気がする。数えればいいのだけれど、あんまり意味がないのでしない」
がほとんどの回答。
家事に疎い人物を本社のマスターデータ。
家事の大部分を担っている人物を現場のローカルデータ。
そう置き換えればわかりやすいかもしれない。

自宅にある食材は、全て自分の金で買ったか貰い物で構成されている。身銭を切ったか、知友人の好意やお返しや気遣いで得た物ばかり。
しかし、その「在庫数」と「実棚」はあんまり考えたことがない。
なぜなら、そんなことにピリピリキリキリしなくても毎日の生活はつつがなく過ぎる。
ツナやコーンの缶詰や調味料の残数はたいした問題にはならない。

物流とは「ツナやコーンや調味料の購入数や総残数」を毎日計上する仕事なのだが、家庭内であまり重要視されない現実は、企業内でも同様に起こっている。
今月も会社からお給料は振り込まれるし、今日もスーパーで食材の購入をしてきたので、冷蔵庫や食品庫には生活に必要な備えがある。その数が総数いくつで明細のすべてを把握しなくても、今夜の料理には支障ないし、明日の朝ごはんも大丈夫。
自宅での暮らしに几帳面で杓子定規な理屈は気詰まり、と思う人も多いだろう。
その感覚が会社の業務にも持ち込まれているケースが数多ある。
日常となっている弛みや違いを疑うことは、平常や平穏を乱す行為として異端扱いされがち。私のような者はその先鋒者となってしまうかもしれない。

もうそろそろやめておく。
ここから先は読者各位が自らの会社や部門に置き換えてお考えいただくほうがよいと思う。
私は是非や善悪を裁定できるような立場ではないし、基準や標準の線引きをする者でもない。

ものごとの正誤是非を問うているのではなく、事実を書いているだけとご理解を乞う。

著者プロフィール

永田利紀(ながたとしき)
大阪 泉州育ち。
1988年慶應義塾大学卒業
企業の物流業務改善、物流業務研修、セミナー講師などの実績多数。

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