物流よもやま話 Blog

コロナ禍に想う「無用の用」の貴さ

カテゴリ: 余談

先月末からコロナウィルス感染者数が減少の一途だ。
このまま下火になって、条件付きでもよいので収束宣言的な発表が待ち遠しくなる。
医療関係者や学者の中にはリバウンドを危惧する声も少なくないようだが、ゼロを目指すのではなく、一定の感染者数を見込んでの制限解除や緩和を望む。

宣言解除直後の先週末は道路が混みあい、行楽地は混雑していたらしい。
それを見越して、土曜日は家人と早朝から郊外の自然豊かな水辺をのんびりと歩いて楽しみ、買い物も済ませたうえで昼前には帰宅していた。帰路の対向車線は長い渋滞が続いていた。
翌日の日曜日は近場を散歩するぐらいしか外出せず、自宅で映画を観て過ごした。
ここまで読めば優等生的慎重行動と思えそうだが、本音を吐けば、実に不本意ながらもワクチン注射を終え、繁華街などを避けて過ごしたこの十数か月の積み重ねを無駄にしたくないという思いが強い。したがって一時的な感染者数の激減を見聞きしても、安堵してタガを弛めることはないだけなのだ。
もう一息と信じて万事慎むしか自助の策は思い浮かばない、と言いかえてもよい。

最近痛感するようになったことがある。
それはコロナ禍での全員・全組織の行動自粛が生んだ最大の弊害についてであり、「人と会って、ムダでくだらんハナシをしなくなった」ことだ。
WEBミーティングでは必要なことしか話さぬ傾向になりがちだし、そもそもあれほど流行っていたWEB会議の機会が激減している。思い浮かぶ理由はいくつかあるが、それはその筋の専門家の的確な分析と説明をご参照されるべきだろう。
たいして用もないのに電話したり、フラーっと訪問したり、世間話や下世話なうわさ話などをだらだらしてみたり、、、などが皆無となった。

「無用の用」という『荘子 第一冊内篇』の「じんかんせい」にある言葉が身に染みる。
このよもやま話もしかり、業界誌などへの寄稿コラムもしかりで、ハナシの中身に遊びや無駄や余談・余裕がなくなってゆく一方だ。こんな不肖極まりないちっぽけな物流屋の駄文とはいえ、実務ハナシ一辺倒でも世間話的要素ばかりでもうまくないことは言うまでもない。
少ないながらも固定読者はいるので、このままのペースで年次増すれば、あと100年足らずでミリオンセラーとなるはず。
自然と気合が入るわけで、身分不相応な大いなる野望もしっかりと抱いている。

何と言っても、拙文の特長は「しょうもない」「くだらん」「いいかげん」「支離滅裂」あたりで占められているとご評価いただいているのだ。それは図らずも、今までの経験や日々の出来事を織り込んで書いているからこその風味となっているのだろうし、現場直送のとれたてネタであることも少なくない。
実務上で有用だったり、ためになるハナシは皆無であり、読者諸氏がご自身の道を往くなかで、ふと思い出していただける内容となることを期して書いている次第だ。
従って、このよもやま話で何かを得ようだとか、役立つ情報を探そうなどの意図があるなら、それは間違いなく無駄に終わるし、早急に他所へ遷移されるべきと進言する。

私には都合よいことこの上ないハナシだが、世の中のほとんどは無駄や無用のモノばかりだ。
モチロン不肖ワタクシが道家のような悟りや達観の境地に達しているはずもなく、都合よく先哲たちの言葉を浅く理解し、安易に使いまわしているだけに過ぎない。
そんなささやかで浅はかな自身の愚行や愚筆にまでコロナ禍の閉塞や停滞は影響を及ぼしてきた。柄にもなく書物にある偉大な言葉を読み返してみたくなるあたり、毎日が単調で起伏ない平坦な営みに時間が呑み込まれてゆくことへの抗いや憂いの証左なのだろう。

本当の疫災はウイルス感染ではなく、それにおびえるあまり、萎縮や微動が過ぎて、人々の営みが生み出す出来事や喜怒哀楽の感情変化が失われゆくことなのではないのか。
ふとそんなことを想う初秋の早朝である。

著者プロフィール

永田利紀(ながたとしき)
大阪 泉州育ち。
1988年慶應義塾大学卒業
企業の物流業務改善、物流業務研修、セミナー講師などの実績多数。

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