物流よもやま話 Blog

今でも正解がわからないこと

カテゴリ: 本質

長く心にとどまって、ふと思い出す事案がいくつかある。
私の場合、その種の回想が他人様よりも多いのではないかと思えてしかたない。中でも仕事に係るものについては「正解や結論が未だにわからぬままである」という要素が多分にみられ、今こうして書いている最中でも、低くうなりながら首を傾げて考えてしまう。

以下のハナシは長くモヤモヤしたまま記憶から消えない出来事のひとつである。

その現場はいわゆる「オール・アナログ」で、業務エラーが絶えない状況だった。
同業他社がとっくに導入している原始的なデジタル化さえも採用できない理由は二点で、いずれも物流屋が口を挟める類の内容ではなかった。
とはいえ、そんな現場は珍しくないし、それなりの運用方策を採れば改善はできる。
実務的には作業手順を見直し、OJTのやり直しと順守を徹底することで現場の作業品質は飛躍的に改善した。二次的にはロケーション配置の変則化によって、動線効率を下げ、ピッキング精度を上げる試みを幾つかのパターンで行い、結果として最適効果を得ることができた。

手前味噌で恐縮だが、アナログ現場としてはかなり高精度を維持できるようになったと思う。誤出荷も在庫差異もほぼなくなったし、まれに発覚しても、原因がすぐに判明する。
業務改善は順調に進み、次は創業〇〇周年を迎えるにあたっての記念事業である「倉庫建屋の建替えと商材のパッケージ変更によるデジタル化」を残すのみ。
表面的にはそれで収まりよく、私の仕事もひと段落といったところだった。

とりあえず万事よし、とすればいいようなハナシなのだが、心の中でずーっと違和感を伴って引っ掛かっていたのは、前述した「デジタル化できないふたつの理由」だった。
具体的には「顧客要望・顧客利便・顧客維持」と「商材パッケージ変更に要する資金捻出は難しい」という中身について語る経営層の真意を測りかねていたからだ。
感じたままを直截に書けば「うさんくさい」または「本当に顧客優先なのか?」である。
とは言うものの、現場改善が落着した段となってからの混ぜっ返しなど論外だったことは当然で、結局最後まで部外者ゆえのもどかしさを抱きつつ、私はその現場を離れた。
数年後、その関与先で予定されていた周年記念事業は行われず、物流関連の諸計画も一切着手されぬまま現在に至っているようだと人伝に聞かされた。

胸中をよぎるモヤモヤの正体は判っている。
「なぜあの時、最上策を貫かなかったのか。経営の苦境を訴える経営層や管理責任者の要望を聞き入れて、次善策にすら挙げなかった案で妥協してしまったのか」である。

当時の心の声は「技術を売ることが生業である。しかしながらあくまで客商売なのだ――顧客の事情や要望を酌むことは正論を貫くことよりも優先されるべきではないのか」だった。
そして同時に心中深くで「そんな方便はうさんくさくないか?」「本当に顧客優先になっているのか?」と何度もささやく声が聞こえたこともまぎれない事実である。
では、「資金が厳しくても、なんとかやりくりして物流品質向上に投資してください。必ず事業の競争力に寄与します」と一歩も譲らぬ体で訴求すればよかったのか?――いやいや、独りよがりの物流至上主義でしかない発言自体が寒々しく論外にしか聞こえないだろうし、改善自体への着手が見送りになっては元も子もなくなってしまうではないか。

いったいどうすればよかったのだろう。
もし明日、同じような依頼が舞い込めば、はたしてお前はどうするのか。
不本意ながらも本筋曲げて、事情に見合った妥協を懐に忍ばせつつ理想論をハナシの枕として――つまり過去と同じく対処療法的な措置を当面案として良しとするのか。
自問のささやきが不意に聴こえては遠のいてゆく。

正論は正論であって、それ以外の何ものでもない。時として正義と同じとされる。
だからといって「今」を斟酌しない物言いは幼稚で粗暴ではないのか…
いつもここで思考が止まる。
そして毎度脳裏に浮かぶのは、自身が袋小路で天を仰いで立ち尽くしているモノクロの光景。

力なき正義は無能だが、正義なき力は……パスカルのような悟りは凡庸な私には難しい。
これからもモヤモヤしたまま考え続けるのだろう。

著者プロフィール

永田利紀(ながたとしき)
大阪 泉州育ち。
1988年慶應義塾大学卒業
企業の物流業務改善、物流業務研修、セミナー講師などの実績多数。

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