物流よもやま話 Blog

そこにあるのは自分の姿

カテゴリ: 本質

写真は長く続いている楽しみのひとつだ。
被写体は生きているもの以外なら何でもかまわない。
街中の路傍にある無機物を何のメッセージ性や訴求連想なしに撮るのが常である。
ちなみに撮られるのは苦痛でしかなく、許される限り避けている。

一番苦手でまず撮らないのは人間。とりわけ身内を含む知人はその最たるものだ。
往々にして、被写体に対する自分の感情や意識が赤裸々に浮き出てしまい、慌ててしまったり唖然とすることの連続だったから。と書けば理由として伝わるのだろうか。
それが嫌だとか気味悪いとかではなく、あまりにも如実にあらわれることが多いので、直截すぎてしんどいのだ。
もちろん写される側はそんなことを意識したりはしない。
撮った画を確認するたびに、撮影者である自分自身だけが気付く。
「あぁ、やっぱりな」
という胸中でのつぶやきは、やむを得なく撮った数少ない過去に付きものだった。

たとえばのハナシを挙げれば、親や祖父母などの近親者が撮影した子供の画は「いい写真」と感じることが多い。
被写体の表情やしぐさの一瞬に恵まれたりなどの幸運もまれに影響するが、ほとんどは何の変哲もない日常や行事の一場面の切り取りに過ぎない。
にもかかわらず「かわいい」や「愛らしい」などの感想を身内以外の他人にも吐かせる。

なぜなのかをお考えになったことはあるだろうか。

それは被写体に対する撮影者の愛情や慈しみが画像になっているからだ。
写っているのは被写体への想いであり、撮影者の内心の感情や意識が被写体の表情に安心や信頼や情愛を浮き上がらせている。
つまり写っているのは自分自身の真の想い。
写真とは字のごとくそういうものだ。

ここからはあくまで「私の場合」だが、業務フロー設計やOJT規定についても自分自身がそのまま写実されていると感じること毎度である。
借り物や出来合いの業務フローやOJTをコピーするような場合を除き、制作物に設計者の個性や特性が反映されるのは当然のことだが、それを意識する本人は多くない。
事態や言い回しと同様に、他者からは「〇〇さんらしい」や「〇〇さん特有の」などの識別や判別するポイントとなる特徴のようなものがすぐに視える。
しかしながら設計者である本人にはそういう特徴やクセは無意識の中にあって、外部からの視点はなかなか持てない。
一般的にはそれを個性と呼んでいるのだろう。

私の場合、自作の業務フローやOJTを必要もないのに見直したりするのは苦手この上ない。
一言でいえば「恥ずかしい」のだ。
内容に不備や不実や不本意があるわけではなく、単純に自画像をみるのと同様の小っ恥ずかしさで俯いてしまう。
それは原稿も同じことで、最低限の掲載前校正はなんとかこなしてはいるものの、時間をおいての拙稿再読は気が進まない。あるとしても、新規原稿を書く際の参考や確認事項のためにやむなく読み返すのみで、それ以外はまったく関心が向かない。
(だからへんてこな言い回しや誤字が一向に訂正されることなく存えるのだ)

「写真は引き算」は、写真愛好家の間では使い古された言葉だ。
まさに物流業務との同質性を感じずにはいられない。
作業である物流現場での行動や規則の設計と、創作である写真に存在する共通要素。
いったいなぜなのだろうか。
思うに、削ぎ落したのちに残った限りなく無機質に近い輪郭や核のほうが、往々にして雄弁であったり流麗であったりするからではないだろうか。
無駄がないことは写真なら美や然や静をまとわせ、業務なら手順や動きの一連が、秀でた動画や創作に似た印象を醸し出す。
とまでは、身びいきと手前味噌が過ぎるかもしれないが、そんなに外れているとは思えない。

構築した物流業務を照らしてみれば、その後ろに続く影の形は自分自身。
さすがにそれを自撮写真のように忌み嫌い、直視を避けて通るわけにはゆかない。
襟だけでなく中身も正して真摯に取り組まなければ、その影の形が歪んでしまう。
細身で小柄ながらバランスよい簡素でなめらかな輪郭の陰影。
目指すべきはそれに尽きる。

著者プロフィール

永田利紀(ながたとしき)
大阪 泉州育ち。
1988年慶應義塾大学卒業
企業の物流業務改善、物流業務研修、セミナー講師などの実績多数。

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