物流よもやま話 Blog

あの日からその日まで

カテゴリ: 本質

この原稿を書いたのは一か月前。
あえて時間をおいての掲載にした理由は、1月17日と3月11日の中間に近い掲載曜日だから。
25年前のあの日、9年前のあの時、それ以前その後に各地の人々が見舞われた抗いようなどなかった天災のすべて。
褪せることない記憶と想いを抱き続けるひとりとして、そして物流に携わるひとりとして、今この時に考えていることを記しておきたい。
チョコレート気分の諸氏には申し訳ないが、多少の苦みとともにお読みいただければ幸いだ。

多くの企業や事業体が掲げるBCMなる言葉。
防災と事後対策は、改めて用語を設けずとも昔から存在していたはずだ。
そしていつも思うことがある。
もし、阪神淡路や東日本大震災の発生時に現在のBCMが存在していたら、そのBCPに記されているような対応や効果が得られたのだろうかと。

1995年1月17日。
その頃はまだ東京で仕事をしていた。
前日終電で帰宅して、その日は午後からの出社予定。
テレビをつけたのは8時過ぎだったと思う。
リモコンを向けた先に映ったのは、どこかの街の大きな火災だった。
「火事か。いったいどこだ?」
目覚め直後の耳に、アナウンサーの叫ぶような声が「神戸」を伝えた。
「そんなバカな」
虚を衝かれ視線がさまよい、動転のまま言葉を失っていた。
「夢でも幻でもない」と自覚する以外の思考は停止したまま時間が過ぎてゆく。
画面は現実なのだと念じるように見入る先に、より大きな衝撃の映像があらわれた。
阪神高速神戸線の高架が倒壊して横たわっていた。

大阪の下町で育った私には、西宮から三宮にかけての地域は憧れと羨望の的だった。
洗練された街並み。居並ぶ洒落た店舗の数々。高級住宅街。国内屈指の美しい夜景。

阪急電車は乗客の雰囲気が違う。

そんな冗談ともつかぬ風評バナシを真顔で聴いて信じていた。
目の前の画面に映るかつての憧憬の地には火炎と煙が立ち上り、崩れたビルや住宅が道路にはみ出し、地面の亀裂と断裂、アスファルトの隆起と陥没が繰り返し続く荒野だった。
現地のすべての機能が停止し、人間の営みが途絶えた様は、遠く離れた関東で画面を見つめる者の思考や感情を氷結させた。
どうしようもなくなっている現地を、何もできないまま眺めているだけの自分がいた。

震災被害者の数は膨大だった。
高速道路をはじめ、数多い建築物が倒壊や使用不可能となるダメージを受け、湾岸の埋立地では液状化による地盤不安定化。
ビルだけでなく民家に至るまで居住不可能か要検査・立ち入り禁止がほとんどだった。
たとえ建屋が残っていても、水道光熱をはじめとする地域の機能が失われていたため、被災直後の動産や不動産の物理的な〇と×にはあまり意味がなかった。
住宅や家財が無傷であっても、そこでは生活が営めなくなっていた。
人間の暮らしは、モノだけでは成り立たない。
地域の有機的なつながりや活動、個々それぞれの場所や時間という「平凡であたりまえのこと」はかけがえのない幸せの産物なのだと実感したのは被災者だけではなかったはずだ。

ご周知のとおり、被災者の不屈の意志と行政・民間双方の渾身の努力によって、神戸は素晴らしいスピードで再興した。
人間の再生能力には限界がない。
それは意志という視えない力によって有事の際に発動する。
阪神淡路の大震災以前も以降も、いくつかの哀しく辛い天災に見舞われた我が国。
しかし苦境にあっても屈せず諦めず投げ出さずを貫いた被災地の人々と支援者たち。
本能としか表現しようのない衝動と無為がそうさせたに違いない。

あの日あの時あの場所に、2020年の今、もしくは近々に竣工する最新設備を有する物流倉庫が存在していたら、いったいどのような効果や社会的寄与を得ることができたのだろうか。
建築時の額面通りに耐震に優れた無傷に近い堅牢な建屋。
その中で自家発電によって動く空調や照明。
移動基地局の到着を待たずとも衛星経由で使用可能な通信機器。
被災して破壊と荒廃を前に、茫然自失のまま絶望の淵をさまよう住民たちは、その巨大な最新式の物流倉庫をどのような想いで眺め、何を求めるのだろうか。

存在価値の第一は事業継続ではなく、被災者保護・支援のために解放されるべき。
そう考えるのは、真っ当な大人ならあたりまえだろうし、全ての企業人が同意するはずと信じている。
倉庫建屋が掲げるべきは、BCMではなくCCM(Community Continuity Management)だと主張する理由だ。

企業活動は慈善ではない。
しかし地域社会が健常でなければ、域内の事業拠点も多大な負の影響を被る。特に倉庫や工場のように地域から労働力を得て成り立つ事業体では顕著だろう。
事業継続の第一に地域の復興を据えることは、BCPの要点だと考えている。それを社会的責任とするのは世論や評論ではなく、事業体の自発的な宣言であってほしい。
尊敬と認知を受ける事業体には、経営理念の奥底に社会的使命感の清冽な水脈がある。
人間を虐げる仕組や制度は必ず廃れ、その逆なら必ず存え続ける。
歴史にはそうあるし、あの日以来の25年間でも同じだったはずだ。

もしもまた大きな天災に見舞われたとき。
我々の備えは少なからず役立たなかったり、不足だったりするだろう。
一定の予測や想定は可能でも、自然の営みを把握したり制御することは不可能だ。
ゆえに対策や予防などによって、無傷や無事に被災を免れることもできるはずがない。
「その日」がいつどこに到来しようとも、事後の体制や約束事を周到に準備しておくことがもっとも有効で重要な事柄だ。
被害の範囲や内容がある程度の確からしさで想定可能ならば、時系列化された対応・対策の具体的な計画を住民や企業に周知しておかねばならない。
それら一連の行動が、BCMではなくCCMであるべき明確な理由だ。

事業は人であり地域そのものだ。
人の営みに先駆けての事業活動はあり得ないし、事業継続する意味もない。
あの日を想い、その日を考える。
それぞれが小さな意志を持ち続けることが、地域社会の事業活動とそれに携わる者の責任ではないだろうか。

 

【2020年3月10日追記】
物流ニュースサイト「LOGISTICS TODAY」に関連内容の連載記事がありますので、併せてご参照ください。

「BCMは地域の方舟」第1回(コラム連載)

著者プロフィール

永田利紀(ながたとしき)
大阪 泉州育ち。
1988年慶應義塾大学卒業
企業の物流業務改善、物流業務研修、セミナー講師などの実績多数。

最近の記事

アーカイブ

カテゴリ

お問い合わせ Contact

ご相談・ご質問等ございましたら、
お気軽にお問い合わせください。

お問い合わせフォーム