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コボットの惑星 第4章 まちがわないコボット

カテゴリ: 予測本質

4.まちがわないコボット

物流業務に限ったことではないが、人間は同じまちがいを繰り返す。
いつの時代でも、「かつてない出来事」や「前代未聞の不祥事」「有史来の逆境」などと、大仰な言い回しで目の前の現象を表現するが、その大半は歴史や履歴や沿革などの不勉強や短絡な思い込みに過ぎない。

■思い上がり
自身も含め、現代に生きるわれわれが遭遇する苦境や困難は、そのほとんどが過去に何度も出現しており、そのたびに解決や収束もしている。
名称や順番や表現が異なるだけで、少し調べて多少の補正をかけてやれば、「ほぼ同じ」もしくは「まったく同じ」と判明する。
歴史を読んで先達に学ぼうとしないのは、根底に「現代に生きるわれわれの方が、過去の人々よりも優れており、より進化して思考力や判断力に勝っている」と何の根拠もなく思い込んでいるからだ。だからこそ遺物・遺跡を目にして「よくも大昔にこんな素晴らしい建造物が造れたものだな」や「いったいどうやって運んだのだろう」「誰がどのようにして描いたのか」などと本気で感心する。場合によっては地球外生命の到来によって、、、なんて言い出す輩まで登場する始末だ。
発言者たちは無意識に「自分たちでさえ不可思議極まりないのに、昔の人がよくもまぁできたものだ」とこれまた無断で、しかも本気で上からモノを言うのだ。先達たちがその様を眺めみれば、「未熟者の厚顔無恥」と嘆き悲しむことはまちがいない。
今地上にある建造物や製造物はすべて人間によって生み出された。
現代人にその説明や想像ができないのは、ただ単に各遺産や遺物を作った人々よりも思考や知力が劣っているからだ。それを神仏や不思議な力や宇宙人の所業にすり替えて納得するなど、愚に愚を重ねることに他ならない。

■ひとを超える人造物
そして現在、画期的・先進的と評されている利器にしても、本質的な目新しさはない。
なぜならその創造主は人間だからだ。
有史以来さほど進化しておらず、賢明なのか暗愚なのかがよくわからない存在。そのうえにどこに向かっているのかも、未だ不明のままだ。
自らが生み出したAIとかいうバケモノまがいの異物に、もはやあれこれと及ばぬ体たらくにもかかわらず、いつまでも支配していると信じている。
「人工知能に勝った」「人口知能並みの明察」「人口知能でさえ及ばぬほどの」などは、すでにAIが上位に位置する存在と認めたことに等しいのに、だ。

■漫画未満の現実感
とある漫画の一場面が思い出される。
それは「鋼の錬金術師」で、シン国のランファンがエンヴィーというホムンクルスと初めて対峙したときに吐いた言葉で、とても印象的だ。
「中に何人いル?」
というこのセリフこそ、現代のAIを言い表すにもっとも好適だと思える。
数多の人智や経験の集積体で、しかも増殖して肥大発達する無重量で無形の概念物。
それに比してなら、まだハガレンの劇中に登場する幾体かのホムンクルスのほうがはるかに具体的で存在を把握しやすい。
漫画よりも現実味に欠ける、ということ自体が漫画の素材になりそうで皮肉だ。

■大人の距離感
コボット関連の記事、特に欧米の経済誌や物流業界誌のWEB版などを読めば、本稿の指摘や危惧以上の関連記事やコラムの多いことに驚きと安堵が同時に訪れる。
まだ国内では期待や興味が先行する状態だが、他国ではもはや「どこまでを許容するべきか」にまで論点が及んでいる。
政治・経済の動向に対して、日本よりも成熟した大人の距離感を保つ諸国では、「万事において最善選択を行い、決して間違わない存在」であるコボットへの信頼や依存の上限を設けるべき、という見識が高まっているようだ。
利便と効率の追求を第一義としない人間主義は、ビジネスの世界でもブレることなく貫かれていると評価する向きもあれば、はたまた合理主義一辺倒で極に走る論調とそれに賛同するグループも決して少なくはない、と読み取れる。
あくまで私見だが、「いつも正しく、間違わないということはまぎれなく異端であり、人の営みにおいては奇形物でしかない」という勢力と、「合理と効率こそ競争原理の基本的要素だ。それに秀でたものが勝者になるのだ」と主張する一団とのせめぎあいが、メディアと一体となって大きな潮目を生み出していると感じて止まない。
さて、ではわが国の物流人たちは潮目のどちら側を正流とするのだろうか。

一企業として、一業界として、そして一国家としての乗るべき流れはいずれなのか。
それは、喫緊の課題として物流現場で不規則で不随意に出現する予感が止まない

■百の利と一の害
人間の生活と文明進化の折り合うべき点――についての意見は多種多彩であり、その是非を議論することに終わりはないだろう。
しかし、目前足下の課題や問題、目標や目的のためには、入手できる手段の限りを求めて止まぬことも大昔から今現在、そして明日以降も変わりないはずだ。
家の前の道路に打ち水をすれば、まもなく路面の温度が下がり、いくばくかの涼風が窓から流れ込んでくる。それがわかっていながらも、多くの人々は窓を閉め切って、エアコンで室温を下げる。除湿にもなって、快適なことこの上ない。

そもそもマンション住まいならそんなことは考えることすらないに違いない。
熱帯夜の夜間も最新機能の「おやすみモード」なら、AIが温湿度管理して、朝まで心地よい眠りが約束される。
家屋の外壁に据え付けられた室外機が温風を排出し、アスファルトやコンクリートの輻射熱と混ざって、ヒートアイランド現象の激化につながっていることなど、改めて言われずとも理解しているが、明日への休息には今夜の眠りが必要なのだ。

寝不足で体調を崩し、仕事に支障が出たりすれば、自己管理能力を問われる。
「周辺環境に配慮して、空調使用を控えたので」という睡眠不足による体調不良の説明は、おそらく斟酌されることはないだろう。
ゆえに皆が昼夜を問わずエアコンを使用する。電気の消費を控えたり、熱滞留の連夜を抑止することに寄与できなかったりは、背に腹を変えられないという心情によるものだ。
個人の引き起こす小さな利己と小さな害は、必要でかつやむを得ないこととして暗黙のまま了解されてしまう。
実は一種の本能的反射としてとらえたほうが適当ではないかとも思っている。

―次回へ続く―

著者プロフィール

永田利紀(ながたとしき)
大阪 泉州育ち。
1988年慶應義塾大学卒業
企業の物流業務改善、物流業務研修、セミナー講師などの実績多数。

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