物流よもやま話 Blog

コボットの惑星 第3章 テセウスの船

カテゴリ: 予測本質

3.テセウスの船

物流現場は標高ゼロの地点にある。
言い換えれば「間違いは常在しており、それが皆無となる世界など想像できない」となる――はあまりにも極論すぎるのだろうか?
われわれ物流屋は荷主企業が「ゼロ」を目指す道程の途中にあるどこかで業を営み、毎日それで食っている。
つまりゼロを欲しがって毎度すがってくるのび太君を相手にして、小言を吐きつつも何とかしてしまうドラえもんと同様に、間違ったり迷ったり依存してくれる相手と遣り取りすることに愛想をつかして拒絶することはない。

■大きな循環
毎回毎度のように、似たような助言や指導をする。言葉を選び、相手が傷つかぬように細心の注意を払い、嫌われぬ程度に嫌味や批判を短く並べる。
そして最後は優しく丁寧に四次元ポケットから出してきた未来の利器のごとく、荷主に下手からあてがっては事を収めている。
この論調だと、のび太君役は荷主、ドラえもん役は物流会社や物流コンサルタントということになりそうだ。違うのは、物流屋はドラえもんほど万能ではなく、荷主は成長するというところだ。ただし「荷主は成長する」については、経営の意思決定レベルが本末転倒や退行ともいえる判断や行動にはしらなければという条件付きではあるが。

さらには、少し引いて世間を見回してみれば、同質の位置関係で成り立っている業界や業種は多数あるし、それこそが世の中の仕組ともいえるのだろう。
そんなことを今さら言葉にする私は、いい齢をして青く未熟なのかもしれない。

「宗教とは蛍のようなものだ。光るためには暗闇を必要とする」

という先哲の言葉が思い出される。
世間の成り立ちや大きな循環は、似通った、もしくは同類の出来事の反復で成り立っているのかもしれない。

■矛盾の反復
世の中の循環は「のび太とドラえもん」の空想世界と同じ、と書いてはみたものの、実は時代を経ても外装だけを変えつつ、同じことが繰り返されているだけではないか?という思いが強くなった。
大仰な過去の検証は控えるが、今現在の実情や実態は、それを覆っている一枚か二枚程度の被せを剥がせば、同じ芯材が現れると思えて仕方ない。
それはいわゆる「パラドックス」とされてきた、古代から読み継がれる物語に例えても支障ないだろう。

ゼノンの運動否定理論――俗にいう「二分法のパラドックス」は永遠に中間点を目指し続けるために、結果としてまったく動けない物体を考察した論理的帰結だ。
アリストテレスの反証を待つまでもなく、そこらのガキんちょが中間点の目測を止めて、一歩踏み出した瞬間にこの理論は破綻する。
しかしながら現実の世界では、ゼノンのパラドックスにも勝る不可解な停止状態を続ける事物は珍しくない。

■テセウスの船
TV番組の題名として一躍有名になった「テセウスの船」にしても、検証の具としての船体の構成物交換は面白い素材だ。
プルタルコスによって端を発した「独自性」を問うこのパラドックス論議は、後世にわたって次々に適合する対象物を増やしてきた。
今も企業や団体の製造物や組織、そして何よりも国家という名で、疑いや再考など皆無のまま数え切れぬほどの同質品が存えている。
この理論は現実の動的変化や多様性を否定する前出のゼノンとは対極にあると言えるのだが、それはヘラクレイトスによる「万物は流転する」に通じる。
世界は絶えず変化し続けている――その思想に強く影響を受けたニーチェの、世界は何度も繰り返すという「永劫回帰」の思想へと受け継がれて、現在の世界でもさまざまな現象として頻出してやまない。日本では方丈記の文頭「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」が同質の世界観を表現している。
つまり古代の哲人たちが踏みとどまり、苦悶と苦悩の連続の果てにたどり着いた解や証の学習やそこから得るべき戒めや示唆を、いつの時代も人々は無意識のままに体現している。

■欠損や未熟の置き換え
矛盾や破綻が創り出した、捻じれて歪んだ空間で、酷似したまま輪廻のごとく転生するのは人の営みの本質――なのだとしたら、造り出される数多の利器の目的は、人間が諦めようとしている自助や自浄の欠落分を埋めわせることに違ない。
ドラえもんも物流現場のコボットも、姿かたちや名を変えただけのテセウスの船なのだ、という記述は飛躍しすぎて意味不明に読み取られるかもしれない。
われわれが思い描く物流世界の未来や進化は、実は過去の事象が変異しただけと予感が過る。しかし、それを認めないか考えすらしない人々――現代人は先達よりも進んだ文明と技術を持ち、頭脳の明晰さを増している、とうぬぼれている歴史を読まぬ不遜者――は、単純明快な事実に気付かないだけではないのか。

技術の進歩や革新は有意義であるし、それで救われ、改善する現場環境や収益動向は数多いだろう。業界にとって不可避となっている労働力の慢性的な不足への対処は、かかわる者すべてが真摯に向き合って議論検討すべき課題だ。
多いなら削減。重なっているなら削除。
失われるなら補填。弱いなら補強。少ないなら補充。

作業手間を減らす、作業時間を減らす、作業人員を減らす――目的はコストを減らす。
という現場の教科書に大きな改訂は見当たらない。
しかし、人が足らない。
人員削減による合理化効率化は善なのに、人員数の確保が危ういのは悪なのだ。
この問題を解く式はゼノンとヘラクレイトスのいずれに書いてもらうべきなのだろうか?
「根本的・本質的は脇に置いて、とにかく対処案を急ぐ」
は、本稿では言及しない。
よもやま話の別稿にたくさんあるので、恐縮だが検索のうえ参照願いたい。

―次回へ続く―

著者プロフィール

永田利紀(ながたとしき)
大阪 泉州育ち。
1988年慶應義塾大学卒業
企業の物流業務改善、物流業務研修、セミナー講師などの実績多数。

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