
めっきり春めいてきて、桜の報もあちこちから届く。
そしてわが国では始まりの時を迎える行事や機関が多い。
疫災によって例年通りのスタートを切れない学生や新入社員の諸君は気の毒で心が痛む。
さらに悲惨なのは昨年の新卒者や新入生だ。
一体いつになったら職場や学び舎で普通の活動ができるようになるのか。
何の落ち度なく、ただただ不遇な若者の今を想うと、やるせなく辛い。
どうかたくましく執念深く耐えて欲しい、としか言葉が継げないことはもどかしい限りだが、無力な拙身を恨めしく嘆いても事態は何も変わらぬ。
ふりかえれば、自分自身にとって春は特段記憶に残るものでは無かった。
春先の「新」が付く節目の中で、唯一喜びの記憶に満ちているのは高校入学の時だけだ。
その思い返しの鍵となっている数々のヒット曲がある。
中でも特に印象的なのは「不思議なピーチパイ」だ。
資生堂のキャンペーンソングとして大ヒットしていたせいか、街中やテレビで流れ続けるメロディが耳に居ついて、当時はかなり食傷気味だった。
曲よりもCMに登場するマリアンのエキゾチックで妖艶な美しさのほうが印象強い。
(曲調とモデルの雰囲気がチグハグだったと記憶している)
対応馬のカネボウの――当時はまりやより格上扱いだった渡辺真知子の曲――「唇よ、熱く君を語れ」の印象はあまりない。(カネボウの松原千明は綺麗だった)
ちなみに竹内まりやはまだ独身。才色兼備のアイドル歌手という扱いだった気がする。
しかしながら音楽史的に1980年新春から卒業シーズンに向けての二大化粧品会社CMソングの印象が薄い。なぜならその前後にリリースされた「大都会」と「ダンシング・オールナイト」が全部もっていったからだと思う。
という大昔のハナシはどーでもよい。
合格の嬉しさの奥底にあったのは、「これでやっと日中はこの町で過ごさなくてよくなる。家業の手伝いも夜だけで済むだろう」という開放感に尽きる。
正直言って高校進学自体はさほど嬉しいことではなかった。
その反動で、高校入学と同時に勉学の類はほぼゼロとなり、いつも赤点すれすれかレッド・ライン下にどっぷり浸かる――まさに墜落ギリギリの低空飛行を続けた三年間だった。
青春ドラマのネタになりそうなことは皆無で、何かに打ち込んだり励むこともなく、目標や夢を抱くような純真で懸命な生き方もせず、ただただ無為に過ごしていた。
その体たらくは大学時代にまで続き、
「まるで人生劇場の青成瓢吉のようだった」
と今思い返しても呆れてしまうやら納得するやら。
自己評価が低いので自堕落で無気力な自分を責めたり嘆いたりすることもなかった。
――それは今も同じであるが。
というつまらんハナシもどーでもよい。
「節目」という言葉は万人がよく使う言葉であるし、企業活動でも頻繁に登場する。
事業年度や周年行事、入社、異動、組織改編、定年。
なかでも異動については、読者諸氏それぞれにも巡る記憶や感情があるはずだ。
私は大きな会社の組織にまつわる内実を知らない。
ゆえに語る資格も了見も持ち合わせない。
しかし取引相手や知友人たちがそのような組織内で、歓んだり嘆き悲しんだり、笑ったり涙したり、迷ったり迷わなかったり、報われたり報われなかったり、楽観したり悲観したり、高揚したり落胆したり、希望に満ちたり絶望したり、歓喜のあまり浮かれすぎたり、謙虚になったり増長したり、冷酷になったり感動にむせび泣いたりする多くの人々をみてきた。
そしていつからか確信するようになったのは、
「企業には善人も悪人もいない。いるのは強い人と弱い人のいずれか」
ということだ。心身の強靭さや脆弱さとは別意ゆえ悪しからず誤解なきよう。
企業人としての言動は、その人本来の性質と別物となることが多々ある。
業務上での行動や発言または他者からの評価や評判と、私自身が感じている普段の人柄とのあまりの落差や異質感に戸惑ったり理解しにくいことが何度もあった。
――判断の良し悪し
――良心の所在
――道徳の有無
などの言葉で私がよく知る人の過失や錯誤や暴走を咎めたり断罪する声を耳にしてきたが、違和感を禁じえなかったことは数多い。なぜなら自分なりに抱いてきたその人の為人(ひととなり)とはかけ離れているからだ。なので事の顛末をどのように説明されようとも、「原因は個人の資質に紐づく善悪に因るものではない」という気がしてならなかった。
そしてある時から、脳裏を過るようになったのは「この人はとても強い人なのだ」や「実は弱い人なのかもしれない」という言葉だ。
何に対しての強いか弱いかも独善的ながら確信している。
それは「自分自身との約束」についての意志の強弱だ。
自身との対話を拒み続けてきた人は弱い人。その逆は強い人。
組織倫理や所属意識に先駆けて、まずは自分自身と向き合い、善悪や是非の確認と約束をしているか否かによって、公での行動や発言が異なってくるのではないか。
禁忌たる境界線や垣根や河を越えてしまうのは、立ち止まらせる警報が鳴らない、鳴っても無視できる程度でだったのでは?と推測している。
亀裂の向こう側に跳ぼう、目の前の垣根を乗り越えよう、この河を渡ろうと、魔が差したり追い込まれた時、背後や横から止める「何か」があるのだとしたら――それは心の奥底に横たわっている自分自身との約束事ではないのだろうか。
自分自身を裏切る者は他人も裏切る。
それは単に組織に属し続ける、上長に従う、穏やかに万事如才なくこなす、などとは別種のもので、生き方の問題と言い表してもよい。
その中身は千差万別のようでたったひとつでもある。
読者諸氏の「たったひとつ」は何なのか。
是非おきかせ頂きたいと思う。
永田利紀(ながたとしき)
大阪 泉州育ち。
1988年慶應義塾大学卒業
企業の物流業務改善、物流業務研修、セミナー講師などの実績多数。
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