物流よもやま話 Blog

コボットの惑星 第7章 人間の仕事

カテゴリ: 予測本質

7.人間の仕事

コボットの改良と普及がすすめば、人間の仕事は減るいっぽう――現場ではほぼなくなるかもしれない――が現在の一般論だ。
総論に異を唱える者はいない。しかしその業務光景の中で働いている自分自身の姿を具体的に思い浮かべる者もほとんどいない。
そんな想像を働かせるほどの造詣は持ち合わせないし、自動化や協働ロボットのいる現場やバックオフィスでの働きかたなど考えたくない――が大多数の本音ではないのだろうか。

■抜いたり刈ったり掘り返したり
光と影が一対であるように、善悪や好悪や正誤の表裏一体化は大昔から変わらない。
ふたつ揃ってこそのそれぞれなのだ。
これは物流現場でも同様である。
現場にはミスの種が常に蒔きつづけられており、いつ発芽するか誰にも知りようがない。

人によっては芽が出てからこまめに抜いてよしとする。かたやで発芽自体を悪として嫌気し、蒔かれた種を掘り起こしては取り除く作業に明け暮れる者も少なからず。
一般的にはそのような作業の担当者を「所長」や「センターマスター」と呼び、現場の責任者ということになっている。
面倒事を引き受ける者という表現でもよいだろう。

■澄んだ水
ミスやトラブルが無くなってしまえばさぞかし清々とした毎日になるはずだ。
朝礼から声を張り上げて訓示や注意喚起をなさずに済むし、定時巡回で警戒や用心を絶やさぬ必要もなくなる。

昨日の〆後に集計された送りデータ、月次・週次計画にある当日の作業や処理事、ルーティン化されて時間割ごとに未達の表示など、庫内の全作業や業務工程の進捗をリアルタイムで可視化している管理システム画面のチェック。
――それに従って行動管理すれば、一日がつつがなく終わる。
管理者に求められる能力は「表示の意味やソースを深読みせずに、ひたすらに過不足なく遂行する」のただひとつだけ。
方法論への疑念や別方法の模索や試行は禁忌とされている。

■安楽の心地よさ
AI内蔵コボットがいる現場で個人があれこれと想を練ることは長く続かないだろう。
毎日が平穏無事に終わることに慣れてしまえば、もはや何も疑わなくなってくるに違いない。人間は習慣の動物なので、ストレスや切迫感のないルーティンは元来心地よいからだ。
ただし、業務時間内の行動に一切の手違いや独善は許されない。
AIのはじき出した答えには、管理者個人の行動パターンや思考回路の分析と業務適正が織り込まれている。つまり、適当な手抜きや不注意によるミスの可能性まで織り込んだうえで日次行動の計画策定がなされているというわけだ。
今までグレーだったり陰でこっそりだったりたまにはこんなことも、まで全部予定調和されて業務行動の起承転結は完了しているのだ。
個人の思慮やイレギュラーの作為など、AIの行動分析データの前では想定された「結果どおり」でしかない。だからもうこっそりサボったりミスにおびえたりする必要はない。
AIはその人の過去データから現場能力や性質を勘案して業務割り振りを作成し、コボットはそのデータに同期しつつ、協働という名の現場支配と監視に勤しむ。

■もとの濁り
とある現場責任者は、一日のタスクを終えて、帰宅後に没頭するのは、かつて愛読していた小説や漫画、映画やテレビ番組のアーカイブスだ――少なくとも私ならそうなる。
寅さん、両さん(両津勘吉)、日本一の無責任男、バカボンのパパ、浮浪の旦那(浮浪雲)、釣りバカのハマちゃん……愛すべきキャラクターの心地よい「いいかげん」。
甘くも辛くもなく、暑くも寒くもなく、きつくもゆるくもなく、好い加減。
そんな時代の映像を観て心が柔らかく温かくなるのはなぜなのだろうか。
曖昧だったり、適当だったり、失敗したり、意固地だったり、頑固だったり。
意気消沈したり、意気軒昂になったり、意気揚々と始めてすぐに意気地なく諦めたり。
「まぁいいか」「次は頑張ろう」「またやってしまった」「なんで同じことばかり」
を嫌っていたはずなのに、なぜか懐かしく思えてしかたない。
当時の自分はなにゆえあれほどに完璧やミスゼロにこだわっていたのだろう。

建前は山ほど口にしたり文字にしてきた。
しかし、人間の営みにはいつも隙や余分や無駄が付いてまとうものだ。

完璧な物流

それを求めるなら、他のあれこれも同調させなければバランスが崩れて奇形化するはずだ。
完璧な物流の事業体には、
完璧な営業
完璧な人事
完璧な総務
完璧な経理
完璧な開発
完璧な仕入
完璧な企画
そして、
完璧な経営

それらが揃っていなければならないのでは?
そんな疑念がむなしいだけなら、もとの時代の濁りや好い加減のほうが好ましい気がしてならない。

人間自体が濁りの元なのだとしたら、それを否定することに矛盾はないのだろうか?
「ミスしてはならない」
「誤出荷ゼロを目指す」
「在庫差異は解消可能」

声高らかに唱えていた前時代的な滑稽劇のほうが人間の住まう環境にはふさわしいのでは?
混沌とした想いが旋回してはフェイドアウトし、ふたたび現れては横並びに居座る。

「ゼロを目指してはいたが、本当にゼロにしてどうする」
「透明な真水では生物は生きられないことも知らぬのか」
誰かの声が聞こえた気がして、不意に振り向いてあたりを見回す自分がいる。

「人間が追い求めた理想の果てに在るのは、人間を無用化に追いやる現実」
このパラドックスの解はどこにあるのだろう。

■因果具時
破綻や錯誤しないAI搭載のコボットが支配する現場――表面的な制御者は人間という建前を約束事の第一としているに過ぎない。
理想郷とされる場所で人間は何をすればよいのだろうか。
少なくても「分析する」「考える」「判断する」は守備範囲外になりそうだ。

AIの持ち分は不可侵であり聖域とされる明日。
その聖域は人間にとって禁足地であり、エリアに立ち入ったとしてもまったく役に立たず、できることは混乱や破壊の元となることぐらいだ。
今現在、管理室から現場を眺めている支配階級とされている人間たちこそ盲目で難聴化する最右翼に位置していることを指摘する者などいないだろう。
心身の恒常的な安楽や単調は、四肢や思考の退化につながる。
動かない・汗をかかない・慌てない・悩まない・苦しまない、はAIを創造して合理性や安定性を手に入れた人間の特権であり権益でもある。
それが結果的には自身の退化や陳腐化につながることなど考えもしないのだろう。
ひたすらに省人化や機械化自動化、合理化などを妄信的に唱え続けて、自らの脚で歩み、自らの手でつかんで運ぶということすら放棄してしまった。

収益という卵をひたすらに産むだけの合理的物流ブロイラーは、引いて眺めれば奇形で奇妙な物体にしか映らないはずだが、それを今訴えても聴く耳を持つ者は少ない。
同調したくても、属する組織や環境が許さない。
属する業界や世論が認めない。
進化の名のもとに、人間とAIの収益装置化は加速する。

―次回に続く―

著者プロフィール

永田利紀(ながたとしき)
大阪 泉州育ち。
1988年慶應義塾大学卒業
企業の物流業務改善、物流業務研修、セミナー講師などの実績多数。

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